北岡和義ブログ第42回 埒がゆかない拉致問題
北岡和義ブログ第42回です。 6月24日から3日間、北朝鮮拉致被害者家族の会と救う会が、首相官邸に近い衆議院第二議員会館前で座り込みました。(写真)30度を越える炎天下、横田滋さんら家族会のメンバーと約

500人の救う会の支援者が国会議事堂裏の議員会館前舗道にずらり、それをメディアが取材します。ぼくも家族の必死の訴えを撮影しましたが、全く 埒がゆかない拉致問題、家族会の人たちの苛立ちは募る一方です。
この座り込みは、拉致問題への国民の関心が薄れ、風化してゆくことを畏れる家族会や救う会が、メディアを惹きつけ報道させることで一般の国民に拉致問題が何ら解決していないことを再認識してもらう、という狙いと見ましたが、北朝鮮への経済制裁を発動せよ、と小泉首相に訴える叫びは悲痛でした。
まさに膠着状態で動かない拉致問題、家族会と救う会は、4月24日に東京で6,000人を集め、「小泉首相に決断を求める国民大集会」を開き、制裁発動と小泉首相に面会を求めていますが、未だ実現に至らず、ついに座り込みという強行手段に出たのです。
すでにお馴染みになった横田滋・早紀江さん夫妻ら家族会の人たちが、つぎつぎと座り込みの人たちを前に「もう我慢尾の限界」「早くめぐみさんを返して!」と叫び、首相官邸に向けて経済制裁発動を訴えましたが、政府は動きません。拉致問題解決への努力は、水面下で続いているのでしょうか。ロサンゼルスに横田さんらが来て、ぼくの番組にも出演していただき、家族の悲痛な気持ちを話していただきましたが、なんともやりきれない気分で炎天下の座り込みを見続けました。
経済制裁の発動は、対北朝鮮に対する強行手段ですが、あのような独裁政権に果たして強硬な態度で臨んで物事が解決に向うだろうか、という疑念もあります。と、言って有効な解決手段は全く見当たりませんし、家族会の苛立ちは暑さとともにさらに募っていきます。凡な表現ですが、粘り強く、拉致さんた人たちが帰国できるまで訴え続ける以外に手はないのでしょうか。(2005年6月30日記)
北岡和義ブログ第41回 「再会」の渡辺・横井夫妻に再会
北岡和義ブログ第41回です。真夏日の6月24日午後5時半、戯曲「再会」ロサンゼルス公演で知り合った演出家で舞台俳優の渡辺義治さんと奥さんの横井量子さんと新宿の喫茶店で再会しました。中国残留婦人問題と日本の戦争犯罪をテーマにした演劇「再会」が8月4日から9日まで、紀伊国屋新宿南口店(高島屋隣)7階サザンシアターで再演されます。敗戦60周年を目前に渡辺夫妻の執念の東京公演です。そして・・・1993年以来、日本各地、中国、アメリカなどで247回続いた、この芝居、この東京公演が最後となります。
渡辺・横井夫妻がロサンゼルスに来てぼくを訪ねたのが2001年でした。リトルトーキョーの小さな劇場で2日間上演されたのですが、観客の大半が中国人だったこと、強烈な印象でした。ぼくはこのLA公演を撮影し、現地のテレビ番組で放送、さらにドキュメンタリー・ビデオを制作しました。(欲しい人は実費でお渡しします)
そしてロサンゼルス公演の直後、あの、911同時多発テロが起きたのです。渡辺夫妻がデトロイトに滞在していた時でした。しかし彼らは敢然とニューヨークへ乗り込み、あの911テロの惨劇で世界中がニューヨークを見つめていた時、公演を決行した、といいますから凄いですね。
渡辺夫妻は50代後半、戦争犯罪を告発する、という深刻なテーマを掲げて、12年間、日本~中国~アメリカと芝居を続けてきたのですからそのエネルギーや相当なものです。過労でしょう。横井さんは健康を損ねて何度も病床に伏しながら回復し、被爆60周年を向かえる8月4-9日、最後の公演に情熱を燃やし続けています。
過去、このお芝居を見た人は12万人。初演から10年、2003年暮れで終わりにするつもりだったけど、イラクへの自衛隊派遣などの動きを座視できず、再演を決意したどうです。C戦犯だった実父と自死した母親、という家庭から日本人の出自を自問し、中国にでかけて過酷な歴史に遭遇、脚本を書いたのが戦後生まれのが渡辺さんです。日本人の戦争責任を問う、というこの重いテーマを奥さんの量子さんと共演し、多くの感動を与えました。未だ見ていない人がたくさんいると思います。ぜひ、この最後の東京公演、見に行ってほしいとご案内します。紀伊国屋は新しくできた新宿駅南口、高島屋の隣の大きな店の7階です。前売り券一般5,500円。学生4,200円。高校生以下は2,100円。(2005年6月25日記)
北岡和義ブログ第40回 大自然を闊歩するオバタリアン
北岡和義ブログ第40回です。6月17日、友人の八ヶ岳の山荘に行きました。別荘の住民の畑仲

間で地主から畑の一画を借りてイチゴ、キュウリ、トマト、レタス、トウモロコシ、エシャーレット、ダイコン、ネギ・・・片っ端から植えて野菜が育つのを楽しんでいるのです。もちろん農薬なんか金輪際使いません。ハウス栽培と違って自然の太陽をいっぱい浴びて育つ野菜の美味しい事。
八ヶ岳に蕨採りに出かけました。約2時間ほどで両手にもちきれないほど蕨を採りました。(写真)途中、ウドもあったので2、3本根を掘り、いい運動になりました。山で出会った登山者はほとんど中年の女性ばかり。子どもが大きくなって家事から解放された年代の女性は仲のいい者同士で山に登ったり、観光旅行や温泉に浸かったり、遊びまくる近年の日本の風景だそうです。
リストラに怯え、早朝から深夜まで働いて疲れ、週末くらい自宅でゆっくりしたい、という男たちには遊ぶ余裕が無いのでしょう。日本の観光地は中年女性の天下なのです~確か、昔”オバタリアン”とかいった漫画が流行ったことを思い出しました。 女性は強い。
近くにある温泉は300~500円くらいで入れます。湯質も良く、しかも最近の施設は清潔で汚れなんか全く無く実に綺麗です。あちこちに美術館があり、野菜の即売所があり、焼きたてのパンを売る店あり、スーパーマーケットの充実ぶりは都会と比べても遜色ありません。友人は典型的な中産階級だと思いますが、年金で生活でき、かつ東京と八ヶ岳に山荘が持てる時代となっただなあ、と感慨きしり。
国会は会期を55日間延長、8月13日まで郵政民営化法案をめぐって与野党の攻防が続きますが、果たして郵政民営化問題は政局になるかどうか、政界は暑くて熱い季節を迎えます。小泉首相は日韓首脳会談に臨みます。(2005年6月20日記)
北岡和義ブログ第39回 三島大社と日大国際関係学部
北岡和義ブログ第39回

です。 6月13日、新幹線で三島へ行ってきました。日大の国際関係学部は、旧陸軍野戦重砲兵第二連隊の跡地にあり、戦前からの軍の敷地は大学のキャンパスとなって、若い学生が溢れています。10年前、シリコンバレーで毎月開いていた勉強会で知り合ったコンピューター技術に詳しい知人がこの学部の教授となって、大学経営に取り組んでいるのです。
その教授の紹介で佐藤三武朗学部長を訪ねました。書生っぽい雰囲気漂うロマンチストで、半年前、上梓した小説を一冊くださり、三島大社を案内してくださいました。源頼朝が100日祈願して平家討伐に出発したというこの神社には頼朝と北条政子が座ったという石もあるのです。
霊峰・富士山を眺めることができる三島市は、伊豆半島の付け根の位置にあります。修善寺をはじめ歴史の色濃い史跡が多い伊豆。川端康成の「伊豆の踊り子」はあまりにも有名ですが、井上靖の出身地は天城、芥川龍之介ら文人が逗留した由緒ある旅館があり、各地に文学碑を見ることができます。
話題に欠かない観光資源が数多くあるのにそれを知らしめる努力を怠っている、と三島の魅力を話してくださいました。大学人でありながら地元コミュニティをこよなく愛する佐藤学部長と飲んだらすっかり三島市ファンになっていました。
三島市には数年前、立ち寄ったことがありますが、町を流れる小川の清冽な澄んだ水に感動したことを覚えています。水の綺麗な町に住みたい、とかねがね願っていたのですが三島はその願いを120%適えています。富士山の雪解け水が地下水となり、自然の湧き水となって水が豊かな土地なのです。
「水と緑と人が輝く夢あるまち・三島~環境先進都市をめざして~」と市役所のホームページにありました。うなぎと鮨が美味しく、伊豆の温泉郷も近い三島、日本はまだまだこうしたいい町があるのに観光客が年々減ってきているそうです。町興しを熱っぽく語る佐藤学部長に共鳴し、いささか飲みすぎました。(2005年6月13日記、あじさいの写真は若尾龍彦氏がメールで送ってくれたもの)
北岡和義 ブログ第38回 カラベラ画家・峰丘さんとテキーラを飲む
北岡和義 ブログ第38回です。22~23年前、メキシコの古都・グアダハラの郊外、チャパラという湖畔で出会った画家が峰丘さんです。峰さんの個展が銀座の画廊で開かれているという案内を貰ったので、

懐かしくなって会いに行きました。画風は実に個性的、強烈な赤と黄、青の原色を大胆に使って、熱帯の花や深海魚を幻想的に描く、という実にエネルギー溢れたアートです。
アメリカで多くの有名無名の日本人アーチストに出会いましたが、ぼくが一番好きなのがこのメキシコ還りの春陽会会員です。ペソが大暴落した時、ロサンゼルスからメキシコへ往復1万数千円で行けるというので友人と二人でグアダハラの友人を訪ね出会いました。チャパラ湖畔での大いなる邂逅でした。
グアダハラの空港に降りたら郊外のチャパラに住んでいた高校教師あがりの画家・M氏が、なぜかぼくの名刺を持っていて、待ち構えていたのです。その際、自分の家の隣に人間の骸骨ばっかり描いている変わった若い日本人画家がいるから会ってみないか、と誘われ、好奇心という新聞記者魂がむらむらと燃え上がり、チャパラへ行ったのです。バンダナを巻いて登場した髭の男が峰丘(みねおか)さんでした。
骸骨ばかり描いている、というので、根が暗い陰湿な感じの画家をイメージしていたのですが、これが聞くと見るとは大違い。あっけらかんな明るいメキシコの太陽のような陽気な男でした。スペイン語で骸骨を「カラベラ」と言います。峰さんのモチーフはカラベラとスイカの二つだけ。骸骨がギター弾いてマリアッチ歌っている、といったユーモラスな線画を一枚買ってお世話になった知人にプレゼントしたのでした。
そのカラベラ画家と銀座で4年ぶりに会ったのですが、峰さんも50代後半、どっしりと落ち着き、品が出てきたのには驚きました。もうカラベラやスイカはあまり描いていないようで、最近は熱帯の花と深海魚。強烈な原色で描く画風は昔と全く変わらず、郷里のいわき市では名士の一人として環境問題テーマの市民運動にも参加し、リーダシップをとっています。
神田神保町のその名もずばり「カラベラ小劇場」という名のテキーラを飲ませる店で、遅くまで飲み語りました。峰丘(みねおか)、1948年いわき市生まれ。72年、24歳で春陽展、二科展に入選、メキシコ人画家、デービッド・アルファロ・シケロスに魅せられ、74年メキシコに留学、国立メキシコ造形大学で学びました。カラベラ、西瓜、熱帯の花、ピラミッド、砂漠をモチーフに「生と死」の真実を描く実力派のアーチストです。
1985年、メキシコ大地震をきっかけに11年間のメキシコ生活にピリオドを打ち、郷里・いわき市に帰還、創作活動をつづけ、全国各地で個展を開いています。エネルギッシュな画風と明るい人柄でファン多く、2年に1回、銀座の画廊で個展を開いています。峰さん、ログハウスを建てたそうで、近くに温泉もあり、泊まりに来い、と誘われたので必ず行くよ、と約束しました。楽しみです。(2005年6月11日記)
北岡和義ブログ第37回 日米ベンチャーの大いなる差
北岡和義ブログ第37回です。6月9日、御徒町の多慶屋へ自転車で行ったら、仲良かったフリー・ジャーナリストにばったり出会いました。近くの飯屋で昼食を一緒して、昔の仲間の近況を聞いたのですが、人それぞれ、ぼくがアメリカで四半世紀を過ごした時間は、大きく人間関係を変えたようです。
ドキュメントの賞を受賞して、いわゆる”偉くなった”ジャーナリストもいます。テレビで名を売った友達もいます。いいドキュメントを書いているジャーナリストや政府の審議会の委員になって注目されている男もいます。でも雑誌や書籍に売れ行きが落ちて、地道にドキュメントを書いているジャーナリストにとって生活はさらに大変になっている、という厳しい現実に対処する方途がありません。
午後4時から箱崎のホテルで、日米の経営、ベンチャーについての大きな差、取り分けグローバル社会を迎えたいま、日本は国際競争力に勝てるか、といった話をしました。スイスのIMDという研究機関が発表した国際競争力比較では年々、日本のランキングが後退し続けているのです。
1998年、日本の国際競争力は49カ国中20位だったのが、99、2000年は24位、01年26位、02年は30位にまで落ちています。起業家精神や株主の権利・責任、大学教育と経済ニーズといった項目ではなんと49位、ビリなのです。
この数字に参加者は驚きの表情でした。”日本はアメリカに次いで世界第二位の経済大国”、特に1980年代後半は急激な円高で、日本は世界一の金持ちの国になった、という幻想を今も棄てきらない日本人が少なくないようです。でも時代は年々変化し、21世紀、すでに新しいステージが幕開けてしまったのです。
日本の国立大学はすでに無く、今は「独立大学法人」と変わり、大学経営が2010年、完全に独立採算制に移行します。国から予算をもらって、のうのうとしている時代は終わったのです。それを自覚している大学人は少ない。大学のランキングでも日本の大学は世界の水準から低く、トップ100位までに入っている大学はほとんど存在しない、という事実をご存知ですか。
しかも最近の子どもたちの学力がどんどん落ちてきています。グローバル社会で日本は落ちこぼれになりかねません。もちろん資金力、技術力、それの経営力もまだまだ上位にランクされているとは思いますが、シンガポール、中国、インド、韓国などアジア各国の台頭に無関心ではいられません。
日米の違いで、最も大きいのは発想の差である、と強調しました。アメリカ人は他人と違うことに価値を見出し、独創的な発想を大事にして起業をめざす。日本人はみんなと同じであることに安心感を抱く。ここのところを打破して自分なりの独創力を発揮してグローバル社会を生きませんか。激変の時代こそチャンスなのです、と。(2005年6月10日記)
北岡和義ブログ第36回 グローバル社会の到来
北岡和義ブログ第36回です。6月6日(月)13:05に日航61便でLAXを飛び立って日本へ向いました。アラスカ上空辺りを飛行中、ラップトップを開いて家を出る前に受信したメールをチェック。その返信メールや日本のスケジュールについて瞬く間に17,18通のメールを書きました。
東京に着いたらインターネットに繋ぎ送ることにしています。今秋10月から全日空がロサンゼルス~成田線に飛行中でも機内からe-mailを送れるインターネット・サービスを開始します。もっともこの場合、有料だけど。
ぼくの乗っている日航機の1時間半早く、同じくLAXを飛び立った大韓航空機が飛んでいます。前回、本ブログで紹介しました野口氏が乗っています。機材はJAL,KALどちらも「ボーイング747-400」ですから飛行速度は同じはず。ということは野口氏はほぼ同じ飛行コースを1時間半先に飛んでいるのです。成田には同僚が車で迎えに来てくださり、ぼくの到着を待って都内へ入ることになっています。
読書灯を点けてキイを叩いていたら誰かがぼくの名を呼んだ。暗い機内ですからよく顔が見えない。目を透かしてよく見ると前夜、会食した友人です。偶然同じ便に乗り合わせたのでした。幸い2席空いていたところがあったので隣り合わせに座ってワインで乾杯しました。
成田空港に迎えに来てくれた友人の車で都心へ、マンションの隣のレストランでまた、乾杯。翌朝、インターネットを開くとボストンから九州大学の教授のe-mailが入っていたので、返信メールを出すと長年、高齢者問題のNPO運動を続けている東京の友人の動向情報を送ってくれました。博多の人がボストンにいて、東京の友人情報をロサンゼルスのぼくが東京で受ける。帰国の機内で前の晩にパシフィックパリせーズで会食した友人と乗り合わせ・・・。グローバル社会がすでにぼくらの生活・移動環境で実現しているのです。こんな話、国際ビジネスをしている人にとって日常茶飯事なのです。そう言えばロサンゼルスの友人と東京で偶然鉢合わせする事が多くなりました。銀座線のホームで、新宿の中小路で。(2005年6月8日記)
北岡和義ブログ第35 回 246Cと405Cの対話
北岡和義ブログ第35 回です。日本からキャラバン社長の野口壽一氏が来羅して、ロサンゼルスでIT技術のプロフェッショナルたちと対話しました。野口氏はぼくの生れて初めてのメル友です。ぼくがインターネットを始めたのは民主党のアル・ゴア副大統領が「情報スパーハイウエイ」構想について歴史的な演説をUCLAで行った翌年、1996年でした。そしてメーリング・リスト「 246C」に参加したのが野口氏との交遊の始まりでした。
技術系の大学を卒業してすぐ親ソ政権のアフガニスタンへ行き、ルポを書いて以来、アフガンと付き合ってきたという異色の逸材ですが、技術が全く分からないぼくにとって貴重な友人。何故か鹿児島県人であることに強い誇りを抱いている新左翼シンパの書生っぽさが抜けないナイスガイです。
「246C」は東京・世田谷の三軒茶屋にあるキャラバンという野口氏の会社のサーバーでIT仲間5人と始めたML。起業家支援という理念を掲げてのスタートでした。”コンピューターおばあちゃんの会”支援など活発な活動が注目され、いろんなメディアで取り上げられ、話題となったNPOのグループです。
今回の訪米はサンディエゴで開かれた携帯電話関連の戦略セミナーに出席するためで、その帰途、ロサンゼルスに立ち寄られたのです。LAにはコーディネーターの鶴亀彰氏が主催する「405C」という、「246C」LA版があり、5日昼、トーランスのレストランに集まって野口氏を囲んで対話となりました。
参加したのはぼくと野口氏、鶴亀氏に元IBMにいたIT関係のセールスのプロ、IT技術にフォーカスした人材派遣会社の経営者、カリフォルニア州立フラトン校でコンピューター・サイエンスの修士号を取得直前の若い技術者ら8人で、活発な意見や討論が約3時間半に及びました。
「日本のグループに比べ、雰囲気が違いますねえ」というのが野口氏の感想。脱サラでビジネスを立ち上げたり、単身、渡米して自己責任でIT技術で生きているモサたちですから発言は新鮮で攻撃的、結構、多様な発想に野口氏もいたく刺戟されたようです。日本のメーリング・リストも最近は色褪せてきており、討論苦手の日本人には勝手に書き込むブログの方がいいのかなあ、というぼくの感想です。
ところでぼくは今日6日午後の日航機で帰国、7月15日まで日本です。梅雨で雨が多く、湿気で暑い一番苦手な季節ですが、日本である協会から講演を依頼され、ぼくなりに発想の多様な豊かさ、ユニークなひらめきこそ今、日本で一番重要な要素だ、ということをカリフォルニアの涼風を携えて強調したいと考えています。(2005年6月6日記)
北岡和義 ブログ34回 普賢岳噴火から14年、髭の市長は講演954回
北岡和義 ブログ第34回です。 普賢岳噴火から14年、日本のテレビが報じて、”髭の市長”として有名になった元島原市長・鐘ヶ江菅一氏をインターネットの映像で見ました。懐かしくなり、国際電話して鐘ヶ江さんと話しました。久しぶりでしたが、張りのある声で10年も先輩とは思えない元気でした。
普賢岳噴火、特に火砕流で亡くなった犠牲者は43人。当時、島原市長だった鐘ヶ江さんは、噴火の現場へ向う途中、腰が痛くてマッサージを受けようと信号で止まった時、突如、運転手に行き先変更を指示して、火砕流に呑まれることなく助かった、という強運の持ち主です。
普賢岳噴火の際、市長として先頭に立ち、住民の安全のため大活躍、一躍、そのリーダシップぶりが危機管理の専門家として有名になりました。1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生して危機管理に関心が集まり、ぼくはロサンゼルスで危機管理をテーマにしたシンポジウムを企画しました。
そのイベントに鐘ヶ江さんと友人のジャーナリスト・大谷昭宏君を招聘したのです。鐘ヶ江さんは実直なお人柄で、普賢岳噴火直後の住民の安全について訥々と語ってくださいました。噴火災害があった後、講演依頼が殺到し、昨日6月3日、島原警察署で954回目の講演をこなしたそうです。
普賢岳は今も時々、白煙をあげるそうで、噴火の際、噴出した溶岩が盛り上がって固まり、平成新山となりました。もちろん日本で最も新しい山で、長崎県で一番高い山となりました。「貴重な観光資源ですね」というと最近の観光客は海外へ行ってしまい、長崎を訪れる人は年々減っている、という話でした。
曹洞宗の信徒会である宗門護持会の会長を5期、危機管理の講演行脚を続ける鐘ヶ江さんは、元は旅館のオヤジでした。名市長として辣腕をふるいながら噴火が収まってすぐ、市長の座を降りました。1市16町だった島原半島は町村合併で来年、3市に統合されます。
鐘ヶ江さんが市長だったら1市に統合できたのではないか、と引退を惜しむ声が今なお地元で聞こえますが、ご本人は全国から頼まれる講演行脚にでかけ、奥さん連れてクルーズを楽しんでおられるそうです。「(噴火で)一度は死んだ身、死ぬまで皆さんのお役に立てたい」という”髭の市長”は74歳。
長電話でしたが、まさに”元気”をいただきました。今月も3回講演予定が入っていて、東京で会おうと言う事になりました。ぼくは仕事柄、総理大臣から各省大臣、国会議員、知事、都道府県会議員、末端の町長、村長まで多くの政治家を知っていますが、鐘ヶ江さんは一番好きな政治家です。(2005年6月3日記)
北岡和義ブログ第33回 MahoNET-21が解散へ
北岡和義ブログ第33回です。日本からの郵便で 「MahoNET-21」が解散したことを知りました。運動のリーダー格の清水透氏の挨拶状でした。骨髄移植の登録推進を呼びかけたこの運動、10年の歳月を経て、20,000人ていどだった骨髄バンクのドナー登録者が現在では26万人の達し、骨髄移植症例も6,000例を越えた、と清水氏の手紙にあります。
血液の癌と言われる白血病の唯一の救命治療法として他人の骨髄を患者に移植する手術があります。ところが移植手術には骨髄の提供者(ドナー)が必要で、ドナー登録の数が現実に移植手術の可否を決定することになります。清水氏の娘さん、真帆さんが急性骨髄性白血病を発病したのが1993年2月で、その年7月22日に骨髄バンクを支える大学・市民ネットワークとして「MahoNET-21」が発足しました。
病床からこのネットワークを広げる運動を提唱した真帆さんは95年2月26日、阪神・淡路大震災で日本中が大騒ぎしている最中、23歳で骨髄移植を受けることなく永久の眠りにつきました。彼女の遺志を継いだ父親の清水氏が骨髄登録運動を継承し、知人の紹介でロサンゼルスにぼくを訪ねてくださいました。骨髄登録を推進することを目的とした演劇「友情」ロサンゼルス公演の協力要請でした。
ぼくが若い新聞記者だった1968年8月8日、札幌医大で日本初の心臓移植手術が和田寿郎教授の執刀のもとに行われ、教育・大学を担当していたぼくは新聞記者として和田心臓移植を取材し、移植医療という先端医療技術を懸命に勉強しました。ですから清水氏が骨髄ドナーの登録運動をやっている、という話はよく理解でき、番組で取り上げ報道しました。
「友情」のLA公演は多くの感激を残して成功しましたが、一方で営業的には大変な赤字だったと仄聞しています。当地の日系コミュニティが支援したのですが、経費を賄うだけのチケットの売り上げにはならなかったようです。この運動は移植ドナーの登録者がアメリカに比べ圧倒的に少なかったのを清水真帆さん父娘の運動が全国の大学、団体に訴えて、大きな広がりとなっていったのです。
公演をきっかけにぼくは清水氏と刎頚の交わりを続けています。清水氏は本職、慶応義塾大学教授で、専門はメキシコ・チャパスのインディオの研究と言う、とても刺激的なテーマでした。清水教授は、四半世紀にわたり何回もメキシコを訪れ、調査し少数民族の研究を続けてこられました。アカデミアの世界にいる清水氏が骨髄ドナー登録運動という全く畑違いのNPOに精力を費やしたのも不治の病に冒された娘さん、彼女の命を救えなかった父親としての無念の想いが運動へのめりこんだ動因でした。
物静かで温厚な人柄のメキシコ少数民族の研究者である初老にさしかかった学究が、全国各地を回り、募金や登録を呼びかけ、東奔西走しました。運動の過程ではいろんな誹謗中傷や思わぬ妨害もあったのではなかったか、と想像しています。私費を投じてロサンゼルスにまでやってきて、運動の支持を訴えた熱意には改めて敬意を表したいと思います。
「長く続けてこられました運動、本当にご苦労様でした。これからは静かにご本業の研究に没頭してください。メキシコへ現地調査にいらっしゃる途中、ロサンゼルスに立ち寄れる機会あればいっぱい飲みながらゆっくり真帆さんの思い出をお聞きしましょう」
ぼくはそんな趣旨のメールを送りました。(2005年6月2日記)
北岡和義ブログ第32回 権力の犯罪を告発したディープスロート
北岡和義ブログ第32回 です。「大統領の陰謀」を暴いた『ワシントン・ポスト』紙記者、ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタイン。若かった二人の記者によるウオーターゲート事件のスクープ、調査報道は、今や世界のジャーナリストの教科書のようになっていますが、その情報源”ディープスロート”が名乗り出てニュースとなっています。元FBI(連邦捜査局)のNo.2だったマーク・フェルト副長官(91歳)が「私がディープスロートと呼ばれた男」と月刊誌『バニティ・フェア』で明らかにしたのです。
権力の犯罪を暴いた二人の記者の報道は、第37代米国大統領、リチャード・ニクソンを辞任に追い込んだこの事件、”ペンが剣より強かった”ことを証明するジャーナリズムの歴史に輝かしい金字塔をうち立てたことは周知の事実でしょう。情報源がFBIというまさに権力トップの座にいた人物の確信犯だったことの衝撃です。
ぼくはTK生のことを思い出します。クーデタで大統領となった朴正煕の独裁時代、TK生という匿名の韓国通信が岩波書店発行の『世界』に連載され、新書にもなりました。言論弾圧の激しかった1973年5月号から88年3月号まで15年間、暗い韓国における民主化運動、一方で権力による弾圧の真相を伝える貴重な情報としてベストセラーになりました。在日韓国人学生、徐勝君や抵抗の詩人、金芝河ら反権力知識人や学生がKCIAという権力の暴力装置に捕らえられ拷問されたその時代、ぼくは韓国を訪れ、徐勝君を救う運動をしていた早稲田大学生に頼まれ、太田市の刑務所に差し入れを送ったことがあります。 渡米1年前の話です。
TK生から原稿を受け取っていた『世界』編集長、安江良介氏(後に岩波書店社長、故人)はぼくも断続的にお付き合いいただいたジャーナリストの大先輩ですが、亡くなるまで、TK生が誰であるか、明らかにしませんでした。そして2003年、突如、「私がTK生でした」と韓国の歴史学者、池明観(チ・ミョングアン)さんが名乗り出たのです。
今、日本は民衆レベルで「冬のソナタ」のヒットが呼ぶ韓流ブーム、一方、政治の世界では竹島問題で鋭く対立という複雑微妙な日韓の構図ですが、最早、池さんが弾圧されることはないでしょう。30年という年月はホワイトハウスや青瓦台、永田町を変えました。権力の動向を取材、報道し、時には対決するジャーナリズムが残念ながら色褪せています。読売新聞の社長だった渡邉恒雄やNHK会長の島桂次(故人)、海老沢勝二に反権力ジャーナリストの毛の1本も無く、経営体質は権力べったりで、彼らの体質こそ今の日本のメディア状況ではないか、と暗然たる思いです。
ボブ・ウッドワードはぼくより2年若い記者で、イエール大学を卒業、ワシントン・ポストの社会部記者としてウォーターゲート事件をスクープ、1973年ピュリツアー賞に輝きました。ウッドワードは現在、ワシントン・ポスト紙編集局次長。2003年、「ブッシュの戦争」(邦訳、2003年2月、日本経済新聞社刊)を書きました。2001年の911テロ以後3ヶ月のホワイトハウスの政策決定過程の内幕を丁寧に検証し、なぜ、アフガン、イラク戦争なのか、を描いているこの本は、アメリカのジャーナリズムが健全で、まだまだパワーを有していることを実感させます。
30年余経った今、ディープスロートもTK生も人生第4コーナーを回ってしまったのですが、歴史を作った彼らと歴史を捏造してしまうジャーナリズムと。日米のジャーナリズム状況を比較してみると時代とは、進歩だけでなく退歩もあるのだという事を実感させるニュースでした。元毎日新聞の西山太吉記者がこの4月、国家を訴えました。「国家の罠」に記者人生を葬られた西山記者の反権力闘争の復活についてはぼくの人生とかすかに交差することもあり、詳しく書きたいといま、資料を集めています。(2005年6月1日記)